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Topページ >>ミャンマー歴史
ミャンマー南部の地は古くからモン族が住み都市国家を形成して海上交易も行っていた。北部では7世紀にピュー人が驃国を建国したが、9世紀に南詔に滅ぼされ、南詔支配下にあったチベット・ビルマ語系のビルマ人がミャンマーに侵入してパガン王朝を樹立した。パガン王朝は13世紀にモンゴルの侵攻を受けて滅び、ミャンマー東北部に住むタイ系のシャン族が強盛になったが、やがてビルマ人によるタウングー王朝が建国され、一時はアユタヤ王朝やラーンナータイ王朝、雲南辺境のタイ族小邦を支配した。17世紀にタウングー王朝は衰亡し、南部のモン族が強盛となるが、18世紀中葉アラウンパヤー王が出てビルマを再統一した。これがコンバウン王朝である。
コンバウン朝ビルマは、イギリス領インドに対する武力侵略を発端とする英緬戦争で敗れて、1885年に滅亡する。 1824年から1826年にかけて戦われた第一次英緬戦争ではビルマがインドを支配するイギリスに対してベンガル地方の割譲を要求、イギリス側が拒否すると武力に訴えたが敗れた。イギリスの挑発で引き起こされた1852年の第二次英緬戦争では、ビルマは国土の半分を失い、1858年〜1861年新首都マンダレーを建設して遷都する が、1885年の第三次英緬戦争で王朝は滅亡し、1886年に、イギリス領であったイギリス領インドに併合されてその1州となる。ティーボー・ミン国王 (Thibaw Min) と王の家族はインドのゴアに近いラトナギリに配流され、その地で死亡した。
ビルマ人の対英独立運動は第一次世界大戦中にはじまり、世界大恐慌以後若い知識層の間に広まった。 1930年にはタヤワディ地方で、農民が武装蜂起を行い、下ミャンマー全域に広がったが1931年半ばに鎮圧された。
1937年、インドから独立してイギリス連邦内の自治領になる。1942年、アウンサンがビルマ独立義勇軍を率い日本軍と共に戦いイギリス軍を駆逐(ビルマ戦役の始まり)し、1943年日本の後押しでバー・モウを元首とするビルマ国が建国された。その後、インパール作戦で失敗を繰り返すなど日本の敗色濃厚とみるや、アウンサンが指揮するビルマ国民軍は1945年3月、日本及びその指導下にあるビルマ国政府に対してクーデターを起こしイギリス側に寝返った。連合軍がビルマを奪回すると、ビルマ国政府は日本に亡命した。日本軍に勝利したものの、イギリスは独立を許さず、再びイギリス領となった。現ミャンマー連邦政府はその建国をビルマ連邦が成立した1948年としており、ビルマ国との連続性を認めていない。ミャンマー国軍は1942年のビルマ独立義勇軍健軍をもって国軍建軍としている。
1948年にイギリス連邦を離脱し、ビルマ連邦として独立するが、直前の1947年7月にアウンサンは暗殺された。 初代首相には、アウンサンを継いでAFPFL(パサパラ)を率いるウー・ヌが就任した。 独立直後からカレン人が独立闘争を行い、共産党は政権を離脱するなど、政権は当初から不安定な状態にあった。1949年、国共内戦に敗れた中国国民党軍の残余部隊がシャン州に侵入し、雲南省反共救国軍としてゲリラ闘争を行った。CIAが物資や軍事顧問団を援助し、タイへのアヘンの運び出しも行った。ヌ政権は国連で台湾国民政府と米国の策動に抗議した。また一方でシャン州に国軍部隊を展開し、1950年代半ばまでに国民党軍勢力を一掃した。ヌ首相の仏教優遇政策は、キリスト教徒の割合が多い、またはキリスト教徒が支配的な立場を占めるカチン、チン、カレンなどの民族の強い反発を招いた。独立を求める民族勢力、国民党軍、共産党勢力との武力闘争の過程で、国軍が徐々に力を獲得し、ネ・ウィン将軍が政権を掌握する下地となった。
ネ・ウィン将軍は1958年から1960年の選挙管理内閣期を経て、1962年に軍事クーデターを起こす。 ビルマ社会主義計画党(BSPP、マサラ)の最高指導者として、1988年まで軍事独裁体制を維持する。1988年にはネ・ウィン退陣と民主化を求める大衆運動が高揚し、同将軍は7月にBSPP議長を退く。 同年9月18日に軍部がクーデターにより政権を掌握する。総選挙を公約としたため、全国で数百の政党が結成される。民主化指導者アウンサンスーチーらは国民民主連盟(NLD)を結党するが、アウンサンスーチーは選挙前の1989年に自宅軟禁される。1990年5月の総選挙ではNLDと民族政党が圧勝したが、軍政は選挙結果に基づく議会招集を拒否し、民主化勢力の弾圧を強化する。前後して一部の総選挙当選者は国外に逃れ、亡命政権としてNCGUBを樹立した。その後、アウンサンスーチーは1989年から1995年まで、また2000年から2002年まで自宅に長期軟禁された。2003年5月にも地方遊説中に軍政側の襲撃を受け、その後現在まで自宅軟禁状態に置かれており、自由な政治活動が許されず、軍事政権の独裁が続いている。2005年11月、政府機関がヤンゴンから中部ピンマナ近郊に建設中の行政首都への移転を開始し、2006年10月10日に正式に行政首都ネーピードー(「王の住む土地」という意味)への遷都を公表した。 2010年11月7日、20年ぶりの総選挙を実施。
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